ヒップホップ発祥の地ブロンクスにユニバーサル・ヒップホップ・ミュージアム (UHHM) が誕生!


ありそうでなかったヒップホップのミュージアムがニューヨークのブロンクス、ヤンキー・スタジアムの西、149丁目 (65 E. 149th St.) に誕生することになりました。それに先駆けて今年12月ポップアップ・イベントが開催されます。

ニューヨーク市は、ブロンクスのハーレム川沿いの145丁目から149丁目の  全面積752,240平方フィートに、再開発プロジェクトの複合施設、「ブロンクス・ポイント」を建設することを発表しました。ショッピング・センター、映画館、子供博物館、レストラン、フードコート、ワークショップの他、市民のための高層住宅も建設されとのこと。この施設の中に、「ユニバーサル・ヒップホップ・ミュージアム (UHHM) 」がオープンするとのことです。

ラッパーの草分け、カーティス・ブロウ

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コロンバス・デー 嘘で固められたアメリカの歴史

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アメリカでは、毎年10月12日はコロンバス・デーを祝います。

アメリカの教科書には、「イタリア人の探検家、クリストファー・コロンバスが1492年10月12日にアメリカ大陸を発見した。」と書いてあります。すでに先住民がいたことは、さすがに今はアメリカ人たちも知っているようですが、今だにアメリカ大陸を“発見”したイタリア系コロンバスの“功績”を讃え、様々な式典が執り行われています。ニューヨークでは、エンパイア・ステート・ビルに、イタリアの国旗色、赤、白、緑のライトが灯され、10月14日(月)にはフィフス・アベニューでパレードが開催されます。

最近では、「コロンバスがアメリカ大陸を発見した」という記述が、「コロンブバがアメリカ大陸に上陸した」に変わってきているようです。いずれにしても、アメリカは、「コロンバスが発見した新大陸に、ヨーロッパからの入植者たちが築き上げた民主国家がアメリカで、コロンバスは建国の父。」というプロパガンダを流し続けてきました。実は、コロンバスは、アメリカ大陸に上陸したことはなく、最初に漂着したのは現在のキューバだったのです。それだけではなく、コロンバス本人は中国に上陸したと確信していたようなのです。1492年、すでに中国と日本の存在をイタリア人のコロンバスは知っていたのです。

先住民の日 Indigenous People’s Day

その後、アメリカはイギリスなどの植民地となり、白人入植者たちによって先住民(アメリカ・インディアン)たちが大量虐殺され、土地を奪われ、作物の実らない僻地へ追いやられました…….。コロンバスだけの責任ではないにせよ、その発端となったコロンバスのアメリカ上陸を記念して祝う、というのはインディアンにしてみたら屈辱以外のなにものでもありません。「アメリカ大陸発見? ふざけるな、オレたちがすでにいたじゃないか…..!」、先住民(アメリカ・インディアン)たちは、「コロンバス・デー」を祝うことに抗議し、この日をIndigenous Peoples’ Day(先住民の日)にするよう求めています。

コロンバス・デー・セール

フロリダ州、ハワイ州、オレゴン州、バーモント州、サウス・ダコタ州、ニューメキシコ州、メイン州など、先住民の多く住む地域では、コロンバス・デーを廃止し、「先住民の日」に定めました。リベラルなはずのニューヨーク州ですが、一部、ウッドストックなどを除き、まだこの動きには同調しないようです。毎年、小売業界では大々的に「コロンバス・デー・セール」というのを開催しているので、「先住民デー・セール」と謳ったのでは商業的に好ましくない、ということでしょうか……。今後の動向が注目されます。

伊藤 弥住子

Zimbabwe 元大統領、ロバート・ムガベ(95歳)死去

日本ではあまり知られていないかも知れませんが、南アフリカにジンバブエという国があります。そこで37年間大統領として君臨した、ロバート・ムガベ氏が、9月6日(金)、95歳で亡くなりました。

ジンバブエといえば思い出すのが、アメリカのハリウッド・ベーシックというレーベルから初デビューした、ヒップホップ・グループ、ジンバブエ・レジット (Zimbabwe Legit)。1992年、ニュー・ミュージック・セミナーという、ヒップホップのイベントがあって、世界各国からアーティストたちが集まっていました。そこで、アキムとドゥミの兄弟デゥオ、ジンバブエ・レジットに出会いました。アフリカでもヒップホップをやっている人たちがいるんだ、と驚きましたが、日本からだって高木完さんとかが、イベントに参加していたんですから不思議はないはずですよね。ZLのメンバーに会って、なんだかアフリカが少し身近になったような気がしたものです。まだあどけない少年のような顔をしているのに、「ジンバブエは内戦や貧困でひどい状況なんだ。とにかく、政府が腐敗している。何とかしないといけない。」と、まるで革命でも起こしそうな勢いで熱く語っていたのが印象的でした。

ジンバブエという国のことを聞いたのも初めてだったような気がします。あ、昔「ローデシア」という国だったんですよね。イギリスの植民地だったのが、独立して地元のアフリカ人が大統領になったのはよかったのですが、やがて独裁色が強くなり、独立前の方がまだマシだったかもしれないと国民は不満をもらしはじめました。その大統領、1980年から2017年まで、37年にわたり、ずっとジンバブエを統治していたのが、ロバート・ムガベだったのです。独立当初は、革命の英雄のようにもてはやされ、英国植民地時代の劣悪な環境から解放されると国民は期待していましたが、やがて、ムガベ政権に反対する者は容赦なく虐殺され、独裁路線をまっしぐらに駆け巡って行ったのでした。悪政が祟り、2007年には失業率は80パーセントにものぼり、ハイパー・インフレーションで経済はガタガタという有様……。

90歳を過ぎた大統領、国会で居眠りをしたり、年齢的にも公務はムリなことは明らか……。政府関係者の再三の辞任要求も無視、2017年末、とうとう軍隊を出動させ、ロバート・ムガベを幽閉して、元の副大統領をジンバブエの新しい大統領に据え、政権交代を行いました。これを機に、(95歳で亡くなったムガベ氏には申し訳ありませんが)ジンバブエが過去の膿を吐き出して生まれ変わってほしいと思います。

ジンバブエ・レジットというグループは解散してしまったようですが、メンバーの片割れ、ドゥミは現在もO.U.O. (Of Unknown Origin) 名義でアメリカなどで音楽活動をしている模様。

Zimbabwe Legit の音楽に興味ある方はこちらをどうぞ。

伊藤 弥住子

8月17日はマーカス・ガーヴィー記念日

Marcus Garvey Day!

817日はマーカス・ガーヴィー記念日です。

1887年、8月17日、ジャマイカ生まれ、アフリカ回帰運動の父として、マルコムXも敬愛していたマーカス・ガーヴィーがもし生きていれば今年132歳を迎えます。彼の生誕地のジャマイカでは、ガーヴィーの誕生日の8月17日は国家の祝日に指定されています。とはいっても、祝日とは名ばかりで、学校も会社もお休みにはならないようです。

マーカス・ガーヴィーって誰? と思っている人は以下を参照して下さい。

マーカス・ガーヴィーの功績

1887年8月17日、ジャマイカのセント・アン‘ズ・ベイ生まれ。印刷工見習いとして働くうち、労働組合運動などを通し、世界中で植民地主義の犠牲になっているアフリカ系黒人たちの統一を組織しようと考えます。

1916年、マーカス・ガーヴィーはニューヨークにやってきます。最初は工場での仕事などをしながら生活の基盤を作ります。

初の黒人所有船会社、ブラック・スター・ライン

 1919年、船会社Black Star Lineを立ち上げ、中古の大型客船を買い取り、元奴隷で身を起こしたフレデリック・ダグラスにちなみ、S.S. Frederick Douglassと名付けました。(実際には、登録手続きができず、元の船名、SS Yarmouthのままでした)ハーレムのアフロ・アメリカンたちに「この船に乗ってアフリカに渡り、自由な国を打ち立てよう」と訴えました。実際にハーレムの港に停泊する「フレデリック・ダグラス丸」は多くのハーレム住人に夢と希望を与えました。「本当にアフロ・アメリカンの国が実現するかも知れない」、第一次世界大戦後、動乱の1920年代の好景気に浮かれるアメリカで、「バック・トゥ・アフリカ運動」は話題の中心でした。ブラック・スター・ラインの株が高騰したことが、さらにガーヴィーのアフリカ回帰運動の信憑性を裏付けたのです。ガーヴィーが率いる団体、Universal Negro Improvement Association (UNIA) はニューヨークだけでなく、全米のブラック・コミュニティーにその支部が置かれ、大きなブームとなりました。マルコムXの両親がUNIAネブラスカ州のオマハ支部に所属、精力的に活動していたことはよく知られています。

母国、アフリカに帰ろう

 ガーヴィーの、黒人の母国アフリカに帰る、という発想は熱狂的に受け入れられた反面、一部のアフロ・アメリカンの知識階級の人たちからは「たわごと」と、相手にされませんでした。あまり知られていないのですが、当時のアメリカの政治家たちは西アフリカの国、リベリアを植民地化していました。目的は、奴隷でない自由な黒人を厄払いすること。自由なアフロ・アメリカンが奴隷を感化して暴動を起こされてはかなわない、と考えた白人政治家が、自由人の黒人たちをアメリカの植民地、リベリアに移住させようと企んでいました。ガーヴィーの「世界中に散在する400万人の黒人の統一」は、白人政治家の「黒人の国外追放」とは意図は違っていましたが、リベリアにアメリカの黒人たちを送り込むことには変わりがなかったのです。すでに西アフリカに拠点があり、ガーヴィーのアフリカ回帰発想はまったく根拠のない絵空ごとではなく、黒人差別の激しいアメリカに嫌気をさしたハーレムの多くの人たちを魅了しました。彼らはガーヴィーを「二グロ版モーゼ」と崇めたのです。

役立たずな中古船、フレデリック・ダグラス丸

 ところが、中古の船、「フレデリック・ダグラス丸」は故障だらけ、整備もされておらず、実は航海不可能な鉄の塊でしかなかったことが判明します。多くの黒人メンバーから航海費用として徴収したお金は、各家族のなけなしの全財産、一生かけて貯蓄した血と汗と涙の結晶でした。ガーヴィーのアフリカ回帰運動のインパクトの異常な反響はアメリカ国家に脅威を与え、それを危惧したFBI, CIA によると思われるマーカス排除計画が遂行されます。女問題、税金問題など、さまざまな角度からの試みの果て、やっと、マーカス・ガーヴィーの「バック・トゥ・アフリカ」は郵便法違反にあてはまると、詐欺容疑で逮捕されることになります。犠牲者は泣き寝入り…….。1922年に郵政法違反で逮捕され、1923年の裁判で、マーカス・ガーヴィーは懲役5年の有罪判決を言い渡されます。

悲惨な結末

リーダー不在のUNIAは勢いを失い、どんどん弱体化してゆきます。1927年、ガーヴィーは刑をおえてアトランタの刑務所から出所しますが、ジャマイカ国籍だったため、そのまま国外追放になり、船でジャマイカに帰されます。

その後、ジャマイカで政党を立ち上げ、政治活動をしますが、健康も衰え、1940年6月10日、52歳でその生涯を終えました。

生涯「故郷のアフリカに帰ろう」と訴えたガーヴィーでしたが、本人は一度もアフリカの土を踏むことはありませんでした。

Marcus Mosiah Garvey Jr.    8/17/1887 – 6/10/1940(享年52歳)

伊藤 弥住子