<Black History Month Special 黒人歴史月間特集>
черный месяц истории – Антирабовладельческая деятельность Фредерика Дугласа
フレデリック・ダグラス February, 1818 – February 20, 1895
今から200年ほど前に生まれ、生涯、奴隷解放運動のために全力を尽くした元奴隷、フレデリック・ダグラスの功績は計り知れません。後半は婦人参政権運動や、女性の権利を守るのための闘いに参加したり、ウーマン・リブの先駆け的役割を担ったことでもよく知られています。
1818年2月、(本人は自分の正確な年齢を知らず、のちのリサーチで確認されました)黒人奴隷の母、ハリエット・ベィリーと謎の白人の父との間にフレデリック・ベィリー(旧姓)は生まれました。端正な顔立ち、180cmを越す長身でスリムなフレデリックは女性の間でも人気があったようです。奴隷として働かされてきたフレデリックですが、農場での強制労働や、監視の暴力にほとほと嫌気がさし、2度ほど逃亡を試みましたが、いずれも失敗に終わり、折檻されています。
ただの奴隷から身を起こし、US Marshal〈裁判執行官〉にまで出世したフレデリックは誰からも尊敬されています。実は、彼が偉業を成し遂げることができたのは多くの女性たちの助けがあったからだと私は思っています。フレデリック・ベィリーとして生まれたメリーランド州の奴隷が、のちの世に知られるようになる「フレデリック・ダグラス」になれたのも、4人の女性の力によるものだと私は密かに思っています。いったいどんな女性たちなのかご紹介していきましょう。
アンナ・マレィ (Anna Murray Douglass 1813-1882) 献身的な妻
まず最初の女性はアンナ・マレィです。メリーランド州、バルチモアで白人宅の女中などをしていた彼女は奴隷ではなく、「自由な黒人」でした。あまりに過酷な奴隷制度に反対する運動は南部でも白人たちから支援され、自由な黒人たちの間で急速に広がりはじめました。自由人で構成される地元の黒人団体、「イースト・バルチモア知識振興会」で二人は知り合いました。フレデリックは奴隷でしたが、読み書きができたため、例外として認められ、集会に参加していたのです。
アンナは教育を受けるチャンスに恵まれず、教養はありませんでしたが、メイドという職業柄、家事が得意で、料理、洗濯、掃除、どれも完璧にこなしていたようです。献身的でやさしいアンナに惹かれてゆくフレデリックでしたが、「奴隷のままでは結婚もできない」と悩みます。彼女に気持ちを打ち明け、「北部の自由州に逃げよう」と、逃亡を計画します。アンナは住み込みで働いて貯めた資金で、フレデリックに汽車の切符を買うお金を用意し、さらに黒人が旅する際に必要な通行証を知人から借りてくることに成功、フレデリックはひとりで逃亡を決行しました。船乗りを装い、バルチモアから汽車でウィルミントンまで行き、そこからフィラデルフィアまで船で移動、最終目的地ニューヨークまで無事行き着くことができました。すぐに、バルチモアで待っていたアンナを呼び寄せ、1838年、知り合いの牧師の誓いのもと、ふたりはめでたく結婚しました。フレデリックは20歳、アンナは25歳でした。やがて、ふたりの間には5人の子供が生まれます。マサチューセッツ州のベッドフォードの港町で造船エンジニアとして働きますが、白人労働者たちからボイコットされ、止む無く荷役など、土方仕事をして生活費を稼ぐ日々を送っていました。5歳ほど年上だったアンナは読み書きもろくにできないまま……….。勉学に励み、知識人として成長した夫、フレデリックとの格差がどんどん開いていきました。
44年間連れ添ったダグラス夫婦は、1882年、アンナの死によって結婚生活に終始府を打つことになります。教養面で不釣り合い、と思われていたフシもありますが、アンナ・マレィこそ、フレデリック・ダグラスを奴隷から解放する大役を果たした強い女性だったのです。
1845年、フレデリックは奴隷時代の体験を著した自叙伝、「数奇なる奴隷の半生、フレデリック・ダグラス自伝」を刊行、瞬く間にベスト・セラーとなりました。ところが、新たな危機が…….。身分はまだ「奴隷」なので、元のオーナーに連れ戻される危険があるのです。一時、イギリスに亡命しようとフレデリックは決意します。
ジュリア・グリフィス (Julia Griffiths 1811-1895) 天才ファンドレイザー
イギリスでは、自叙伝を出版した元奴隷、というので奴隷制反対運動家たちから歓待されます。そのうちの一人が、ロンドンで知り合った白人知識階級の女性運動家、ジュリア・グリフィスです。イギリス滞在中の二年間、フレデリックは講演活動をしながら、ジュリアと交流を深めていきます。いつしか、ライター/エディターとして才長けた年上の白人女性、ジュリアに惹かれてゆきます。ジュリアもまた、教養とウィットのあるハンサムなフレデリックを愛おしいと思うようになります。彼のために自分のコネを駆使して資金調達に励み、奴隷である彼の借金返済のお金を工面してくれます。頼もしい職業婦人、それがジュリアでした。フレデリックは、アイルランド、スコットランドなど各地を訪れましたが、一度も黒人だからといって差別されたことはなかったそうです。自由を謳歌していたフレデリックでしたが、アメリカで苦しんでいる奴隷たちを見殺しにはできません。
1847年、フレデリックはアメリカに帰国します。2年後の1849年、ジュリア・グリフィスは彼の後を追ってニューヨーク州のロチェスターにある彼の家に押しかけます。(当時フレデリックはアンナと結婚していました)表面上はフレデリックのアシスタント及び子供たちの教育係りですが、不倫相手ではないか、とスキャンダルになりました。読み書きのできない妻のアンナの変わりに白人女性のジュリアが子供の家庭教師として雇われたかたちでした。アンナはいったいどんな心境だったのでしょうか。彼が刊行した奴隷反対運動の機関紙「ノース・スター」の立ち上げにもジュリアが協力しています。一時、「ノース・スター」運営の資金繰りがうまくいかず、抵当に入っていたフレデリックの自宅を危うかも知れないという危機が訪れました。境地を知ったジュリア、ファンドレイジングに励み、資金を調達、フレデリックは家を失わずにすみました。彼の家にどのくらい住んでいたかは定かではありませんが、1855年、イギリスに彼女が帰国するまでの6年間、何年かは同居していたという記録が残っています。ジュリア他6人のメンバーで「ロチェスター婦人奴隷制反対協会」を設立、積極的に活動を開始しました。フレデリックが婦人問題に取り組むようになったのも、リベラルな思想をもつジュリアの影響が大きかったといえます。黒人の元奴隷とイギリスの白人女性のカップルへの風当たりは強く、ジュリアは本国のイギリスに戻ることになりました。
オッティリー・アッシング (Ottilie Assing 1819-1884) リベラルな奴隷制廃止運動家
やっと身辺が静かになったと安堵していたアンナですが、今度はドイツから招かざる客がやって来ます。フレデリック・ダグラスの自伝を読み、興味をもったハンブルグ出身の自由奔放な奴隷制廃止運動家で、白人女性ジャーナリスト、オッティリー・アッシングから「是非、インタビューをさせてほしい。」という書簡がフレデリックに届きます。わざわざドイツから…….、フレデリックは快諾します。ジュリアが去った翌年、1856年、37歳の独身女性、オッティリーがロチェスターのフレデリック・ダグラス邸を訪れます。一瞬にして恋の炎が燃え上がりました(私の勝手な予想にすぎませんが……..)。ドイツからアメリカに移住したオッティリーは、ニュージャージー州のドイツ人コミュニティーだったホーボーケンに住んでいました。知り合って以来、ふたりは毎年、夏はロチェスターのダグラス邸で一緒に過ごし、フレデリックも頻繁にホーボーケンを訪問しています。今では、ロチェスター(NY)ホーボーケン(NJ)は車で3~4時間の距離ですが、当時は馬車や汽車に乗って何日もかかったようです。ふたりで奴隷廃止運動の集会に出席したり、フレデリックの講演に同行したり、まるで夫婦のように付き合っていたようです。オッティリーと26年間にわたる交際で、フレデリックも彼女のヨーロッパで主流だったリベラルな考え方に強く影響されてゆきます。クリスチャンとして育ったオッティリーですが、次第に神の存在を否定するようになります。
フレデリックの妻、アンナが亡くなった1882年8月、オッティリーはヨーロッパに長期滞在していました。フレデリックとは手紙で連絡を取っていたようです。アンナの死によって、当然「私たちも晴て結婚できる」と彼女は思ったのでしょう。ところが1884年、フレデリックが結婚したというニュースが流れたのです。相手はこの後にご紹介するヘレン・ビッツでした。ワシントンDCやニューヨークの地元の新聞に、「インター・レイシャル結婚!」と、大きく報道され、パリにいたオッティリーにもそのニュースは伝わりました。1884年8月21日、フレデリックと一緒に歩こうと約束していた、パリのブローニュの森のベンチで、オッティリー・アッシングはたった一人、用意してきた青酸カリを飲んで息を引きとりました。彼女のすべての財産はフレデリック・ダグラスに捧げる、という遺書を残して…………。
ヘレン・ピッツ (Helen Pitts 1838-1903)
ニューヨーク州のロチェスター近郊の街に育ち、教育者としてアフリカン・アメリカンの学校で教鞭を取っていた知識人の女性、ヘレン・ピッツは、フレデリックと出会うべくして出会いました。両親とも奴隷廃止運動家で、ヘレンも高等教育を受け、黒人教育に力を入れていたハンプトン・インスティテュートで教師をしていました。ワシントンD.C.に引っ越したヘレン、偶然にも政治家として偉くなったフレデリック・ダグラスの豪邸の隣りに移り住んだのです。ホワイト・ハウスを見下ろす丘の上の瀟洒なマンションは、シダー・ヒルと呼ばれていました。
ヘレンは、フレデリックが書記官を務めていた不動産登録記録省の秘書として雇われました。自叙伝、「フレデリック・ダグラス、わが生涯と時代」の執筆にあたっていたフレデリックのアシスタントとして手伝ううちに愛が芽生えたようです。
1884年、妻のアンナが亡くなって約一年後、フレデリックは20歳年下のヘレンと牧師の前で結婚式を挙げました。奴隷廃止運動家で、リベラルな考えの持ち主だったヘレンの両親でさえ彼女が黒人と結婚した、という理由で彼女を勘当しています。フレデリックの子供たちも、「母に対する冒涜だ」と父のもとから去ってゆきました。
1895年、2月20日、フレデリック・ダグラスは突然の心臓発作で他界しました。77歳でした。
ヘレンの最も大きな功績は、彼と人生を共にした家、シダー・ヒルを保存してミュージアムにすることを実現したことです。父の死後、長女のロゼッタはじめ、フレデリックの子供たちは白人であるヘレンを後妻と認めず、彼女に遺したはずの家を明け渡すことを拒絶していました。ヘレンは生涯をかけてフレデリック・ダグラスの名を後世に残すため、ずっと闘い続けました。その努力が実り、現在、フレデリック・ダグラス邸は特別史跡に指定され、邸宅内を見学することができます。今でもホワイト・ハウスを一望できますが、まわりはかなりのフッドです。
Frederick Douglass National Historic Site
1411 W St SE, Washington, DC 20020
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伊藤 弥住子