Xになりきれなかったマルコム・シャバーズ:Becoming X – Malcolm Shabazz Story

Malcolm X and his grandson

Malcolm X and his grandson

Generation Next – Was Malcolm Shabazz Silenced…….?

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1965年2月21日、元ネィション・オブ・イズラムのスポークス・パーソン、マルコムXが凶弾に倒れてから49年………..。Xがやり残した遺業をなんとしてでも成し遂げたい……。マルコムXの孫にあたる跡継ぎ、マルコム・ラティーフ・シャバーズは祖父、Xの歩んだ道を歩み始めました。2代目マルコムがブラック・ムスリムの指導者として頭角を表し始めた矢先の2013年5月9日、メキシコで死体となって発見されました。一体、何が起こったのでしょうか。

マルコムXの孫、パリにて誕生

Qubilah, Malcolm and Attallah

Qubilah, Malcolm and Attallah

偉大な市民権運動のリーダー、マルコムXから受け継いだ「名声」という名の遺産は、マルコムXの残された家族全員にとって重くのしかかっていました。マルコムは6人の娘を遺しましたが、父の遺志を受け継いでブラック・イスラムの指導者となろうとした娘はいませんでした。次女、キビラ・シャバーズがパリのソルボンヌ大学留学中に知り合ったアルジェリア人のムスリムとつき合い妊娠、男の子が生まれました。マルコムXの初めての男の跡継ぎが生まれたのです。キビラはためらわず、「マルコム」と名付けました。

1984年10月、マルコムXの孫、マルコム・ラティーフ・シャバーズ、パリにて生誕母のキビラは息子の父親と別れ、マルコムが3歳の頃、アメリカに帰国することを決めます。キビラはカルフォルニアをはじめ、おばあちゃんが住んでいたフィラデルフィアのゲトー地区や、母(マルコムXの未亡人)ベティ・シャバースのNYヨンカースの家などを転々とし、遊牧民のような生活をしていました。名門のプリンストン大学、パリのソルボンヌ大学に学んだインテリ女性にもかかわらず、母のキビラ・シャバーズは現実社会に馴染めず、一時はファミリー・レストラン・チェーンのデニーズや,IHOP (International House Of Pancakes)でウェイトレスとして働き生計を立てていました。

Photo Shoot

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若いマルコムは、しだいにブラック・コミュニティのヒーロー、マルコムXの「名声」を意識するようになります。母、キビラにとっても世界的に有名なマルコムXを父に持ち、世間からの大きな期待は苦痛に感じることさえありました。やがて、繊細でナイーヴなキビラは精神不安定に陥り、子育てをギブアップ、マルコム少年は親戚、友人の間をたらい回しにさせられます。10歳の頃、祖母のベティ・シャバーズの家に半永久的に引き取られることになりました。一方母のキビラはその当時、父、マルコム X を殺したのはネィション・オブ・イスラムの指導者、ルイス・ファラカンに違いないと信じ込み、彼の暗殺計画を練っていたと伝えられています。1995年、ファラカン暗殺容疑で逮捕されましたが、のちに、有罪を認めることで減刑になるという司法取引で、テキサスのサンアントニオの施設で精神鑑定トリートメントを受けることを条件にキビラは実刑を免れます。

Young Malcolm

Young Malcolm

多感な時期を母親からひき離され、他人の家やグループ・ホームで過ごした影響は、精神分裂症という形でマルコムを苦しめることになります。精神不安定でまともな職に就くことのできない母親、キビラと離ればなれの生活は寂しがりやのマルコムを土壇場まで追いつめます。

1997

1997

ベティ・シャバーズ宅放火事件

母に再会したいと思う気持ちが日に日に募り、マルコム少年は、1997年、6月1日未明、ヨンカーズの祖母の家に火をつけてしまいます。「手に負えない子だ。母親のもとに送り返したほうがいい」と思わせるためでした。ところが、あっという間に火の海となり、逃げ遅れたベティ・シャバーズは大やけどを負って入院。3週間後には帰らぬ人となってしまいました。ほんのいたずらのつもりだったのに………。12歳のマルコムにとって大好きな祖母が自分の過失が原因で死ぬなんて信じられませんでした。このことは忌まわしい記憶として生涯つきまとうことになります。(それにしても、子供とはいえ放火するというのは極端ですね。)

David Dinkins and Percy Sutton

David Dinkins and Percy Sutton

「マルコムXの孫、マルコム・シャバーズ放火容疑で逮捕!」というニュースは全米に広がりました。弁護に当たったのはシャバーズ家と深い繋がりをもつ、ハーレムの有力政治家で弁護士のパーシー・サットン、元ニューヨークの市長/弁護士、ディヴィッド・ディンキンス。黄金コンビだったにもかかわらず、無罪にすることはかなわず、18ヶ月の少年鑑別所送りとなりました。ただし、一般のケースとは違い、服役する場所を選べるという特権を与えられました。ニューヨーク郊外のゆるい施設で VIP待遇 だったそうです。柵も鍵もなく、自由に外を歩き回ることができました。マルコムが14歳の頃、まだ施設に服役中、ギャング集団のブラッズに入信、 涙マークのタトゥーを入れました。マルコムのニックネームはメッカ(Mecca – Murder Every Crip Child Alive) 、生きているクリップ(ライバルのギャング集団)のガキは残らずぶっ殺す、という過激な意味を含んでいます。

AP_Malcolm_Shabazz_wgそんな荒れた毎日を送るマルコム少年でしたが、やがて祖父のマルコムX同様、イスラムの教えに目覚めます。母のキビラや、尊敬する叔母、イリアッサ(マルコムXの三女)から「Xおじいちゃんの哲学をちゃんと勉強するよう」勧められ、祖父が作家、アレックス・ヘィリーに書かせた「マルコムX自叙伝」を始め、多くの本を読みあさるようになりました。ブラッズ・メンバーたちもみんな結局はドラッグ・ディーラーかジャンキー、何度も刑務所に入って成れの果てはギャングの抗争で犬死にしている……、そんな現実も見えてくるようになりました。マルコムはブラッズを脱退します。

国際的に有名で、しかも過激派アジテーターとして政府のブラック・リストに載っているマルコムX(エル・ハジ・マリーク・エル・シャバーズ)を祖父に持つマルコム・ラティーフ・シャバーズの青春時代は波瀾万丈でした。精神分裂気味で不安定な家庭環境、政府からの嫌がらせなど様々な要因が重なり、少年院を出所してからもマルコムはたびたび刑事事件に巻き込まれます。本人は警察のでっちあげだと主張していますが、警察の記録によると、窃盗、強盗、武器不法所持、さらにはJウォーキングなど、通常では逮捕にまで至らない軽犯罪など数えきれないほど逮捕歴があって驚きます。

Malcolm and Qubilah Shabazz

Malcolm and Qubilah Shabazz

X待遇

反面、マルコムXの孫というだけでまわりから英雄扱いされる、という嬉しいご褒美もありました。特に刑務所では「マルコムXの孫」という肩書きによって囚人たちからたばこ(刑務所では貴重品)をもらったり、食事の量を増やしてもらったり(カフェテリアで働くのも囚人)VIP的な扱いを受けました。その頃から、「俺の力でこの世の中を変えることができるかも知れない。世界中の黒人を結束して人種差別のない、黒人が自由に生きていける社会にすることが悲願だった祖父の遺志を継ごう。」という意識が芽生えてきたようです。祖父がそうだったように、2代目マルコム・シャバーズも服役中に知りあったムスリム信者に啓蒙されたのです。Xはイスラムでも多数派のスンニ派でしたが、若いマルコムは少数派のシーア派を選びました。私はイスラム関係に詳しくないのでその違い等についてはここでは割愛したいと思います。

ID

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「奴隷制は廃止になっても、現在も違う形態で自分たちは奴隷扱いされている。政府は俺たち黒人をやたら逮捕して刑務所に入れて不当に強制労働をさせている。」とマルコムはメディアにも訴えています。あまり知られていないのですが、アメリカの刑務所は国家が管理しているわけではありません。あくまで営利目的の個人企業、団体が運営しています。マルコム少年が4年間過ごしたニューヨーク郊外の 少年謹慎施設は地元の病院が経営していました。

アメリカの刑務所では人権が守られていないことが多いのです。 犯罪の重度によっては選挙権も剥奪されます。看守の不当な暴力、差別、嫌がらせなどなど…….。もちろん、ホテルではないので多くは望めませんが….。服役中に働くこともできますが、最低賃金は保証されていません。時給750円が最低賃金とした場合、囚人が得られるのはたかだか時給50円くらいなのです。刑務所を運営する企業、団体は一般企業から仕事を請負い、囚人たちを働かせてその差額をピンハネしています。システムの犠牲者、マルコム・シャバーズによれば、「刑務所」は現代の「奴隷制」なのだそうです。

アフリカ統一への希望

Released from Attica, NY in 2008

Released from Attica, NY in 2008

2008年1月、ニューヨーク北部の強盗の罪(本人は罪状を否定。レイプされそうになった12歳の少女を助けようと相手を殴ってけがさせたのが原因と主張)で、4年間のお務めを終えてアッティカ刑務所を出所したマルコム・シャバーズは新しい人生を歩み始めます。ムスリムとしての修行が始まりました。同時に、各地のモスクで信者たちと交流をしたり、スピーカーとして集会で人々に訴えかけたり、布教活動にも全身を注ぎました。黒人運動の指導者、マルコムXでそうであったように、孫のマルコム・シャバーズも、「アフリカン・ユニティ/黒人の団結、黒人の劣悪な環境改善、人種差別撲滅、警察による暴力反対」などを目標に掲げ、ブラック・リーダーを目指すようになりました。

Malcolm Shabazz

Malcolm Shabazz

2010年は頻繁にカルフォルニアのベイ・エリアを訪れています。オークランドのイスラミック・カルチャー・センターと密接な関係になり、たびたび集会に招かれてスピーチをしています。マルコムのイスラム寄りの考えはアメリカ政府の注意を引くようになり、FBIの監視下に置かれるようになります。イランで開催される映画祭に参加するためイランのビザを申請したところ逮捕状が出されるという事件もありました。

2011 Malcolm and Qaddafi

2011 Malcolm and Qaddafi

11月にメッカ巡礼するまでにフランス、カタール、オランダ、カナダ、アラブ首長国などを訪問し、イスラムの主要人物と会見しています。2011年2月、リビアの首都、トリポリにて開催されたパンアフリカン・コンファレンスに出席した際、マルコムはリビアの指導者、カダフィにも会見しています。ほかにも暗殺されたアフリカのコンゴ首相、パトリース・ラムンバやガーナ首相クゥワメ・ンクルマなどの子孫たちと交流を深めました。シリアのダマスカスに約一年滞在し、本格的にイスラム・カルチャーの勉強もしました。

Juan Ruiz, Malcolm Shabazz, Miguel Suárez

Juan Ruiz, Malcolm Shabazz, Miguel Suárez

この頃には、「世界中のアフリカの子孫を統一してアフリカン・ユニティーを作ろう」という構想が芽生えてきたようです。メッカ巡礼をしてからはさらに、「アラブ諸国のアフリカの子孫たち、アメリカのアフリカの子孫たち、そしてアフリカ諸国の各部族たちを統一して大きなブラック・ナショナリズムを推し進めよう!」と世界中で祖父、マルコムXの教えを説くようになりました。さらには、「メキシカン、ヒスパニックとも手を結び、ブラック&ヒスパニックの世界を樹立する」とエスカレートしてゆきます。あの偉大なマルコムXの孫だったらできるかも知れない…….。マルコムX2代目はブラックの救世主なのかも知れない。多くの若い黒人たちがマルコム・シャバーズは自分たちの希望の星だと思うようになりました。

Malcolm X College, Chicago

Malcolm X College, Chicago

Xの孫、メキシコで殺害

2013年、5月9日、メキシコ・シティでマルコム・ラティーフ・シャバーズ(28歳)が死亡したという警察発表がありました。同行していたのは、メキシカンの友人でRUMECというメキシカンの労働者組織のリーダー、ミゲル・スアレス。カルフォルニアに住んでいたミゲルは4月にメキシコに強制送還になったばかり。マルコムはカルフォルニアを訪問したその足でメキシコのティファナでミゲルと落合いました。目的は、アフリカン・アメリカンとメキシカンと手を取り合って統一機構を作ろうというもの。なぜ、丸二日もバスに乗ってメキシコの首都のメキシコ・シティに行ったのかは不明です。

Map

Map

同行したミゲルの証言によると、観光客をカモにふんだくる暴力バーで美女に声をかけられ楽しく飲んで1200ドル(12万円)という途方もない金額を請求され抗議したところ、ウェイターに拳銃で脅されて他の部屋に連れ込まれている間にマルコムが殴られて倒れていたのだといいます。なぜ、メキシコ人のミゲルがそんなアブナいとわかっている所へマルコムを誘ったのか、も疑問です。本人はかすり傷ひとつ負っていません。スアレスの「メキシカンの労働者たちの権利を守ることが使命」、というのは表向きだけで、実際にはドラッグ取引をしていた、とのウワサもあります。マルコム・シャバーズの謎の死は私たちに大きな疑問を投げかけました。

Palace Club, Mexico City

Palace Club, Mexico City

Xになりきれず、28歳という若さで昨年の5月9日この世を去ったマルコム・シャバーズにご冥福をお祈りします。

Hajj Malcolm Shabazz

Hajj Malcolm Shabazz

伊藤弥住子

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