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Frankie Crocker

FMラジオ界のレジェンド フランキー・クロッカー

Frankie Crocker WBLS

WBLS 107.5

「フランキー・クロッカーのFM番組じゃなかったらラジオじゃない。」と言い切ったのがフランキー‘ハリウッド’クロッカー。NYのFMステーション、 WBLS の名物パーソナリティーで、やがて同ステーションのプログラム・ディレクターとして手腕を発揮した人物です。アクが強く、その派手なふるまいは親しみとちょっぴり嘲笑をこめて‘ハリウッド’と呼ばれるようになりました。

Frankie Crocker, The Chief Rocker
自称、「すらりと背が高く日焼けした若くてカッコいいソウル・ブラザー・ナンバー・ワン」、そのエゴの強さで敵も作りましたがしっかり業績 を挙げたことはさまざまな数字が証明しています。

まだ局のスタイルを確立することができなかった70年代初期、「アーバン・コンテンポラリー」という路線をはっきりと打ち出し、レイティングで苦戦していたWBLSをニューヨークのナンバー・ワン・ステーションに育て上げたのです。まだアメリカで知られていないアーティストをブレイクさせることに全力を注ぎ、なんと30以上ものアーティストをスターの座へと導いたことはよく知られています。

Soul Makossa
今では夏の風物詩とまでいわれるアフリカ・ミュージック、「ソウル・マコッサ」もその一例。カメルーン出身のマヌゥ・ディバンゴのオリジナル曲ですが、アメリカではまったく知る人はいませんでした。ニューヨークのダウンタウンで異色のパーティー「ザ・ロフト」のDJ、ディヴィッド・マンクーサがブルックリンのウェスト・インディーズ(カリブ)・レコード店で偶然見つけたのがこのディバンゴの「ソウル・マコッサ」です。ザ・ロフト自体はごく一部のオタク的ダンス・ミュージック・ファンが個人のアパートに集まって楽しむという「クラブ」のハシリといったパーティーでした。好奇心が旺盛で常に「新人発掘」を狙っていたフランキーは当時一世を風靡していたセレブばかりが集う Studio 54 だけでなく、「ザ・ロフト」のようなカルト的なパーティーもまめにチェックしていたのです。そこで初めて聴いたのが「ソウル・マコッサ」で、さっそくWBLSでかけたところ大反響。レコードがリリースされた翌年の1973年までには大ヒットになってしまったのです。

他にもフランキーにまつわるエピソードはたくさんあります。さっそうと白馬にまたがってクラブStudio 54 に現れたかと思ったら、今度は自分のヌード写真をWBLSの宣伝ポスターとしてニューヨークの街中に貼って人々の度肝を抜く………。ナルシストで派手好きなフランキーは「裏方」というこれまでのプログラム・ディレクターの概念を覆してしまいました。同時に、音楽を愛する仕事熱心なラジオ・マンという側面ももっている人でした。

Curtis Mayfield
あれは忘れもしない1990年の8月13日、ブルックリンでライヴ・ショーを開催した時のことです。「マーティン・ルーサー・キング・ミュージック・フェスティヴァル」と題した無料コンサートの最中、おりからの暴風雨によって屋外ステージの照明が落下、なんとこれからパフォーマンスが始まるという時に舞台に登場したカーティス・メイフィールドの頭上に的中してしまったのでした。他にクルーが3人被害に遭いましたが軽症ですんだようです。そのニュースを真っ先に伝えてくれたのがWBLSのフランキー・クロッカーでした。当時1歳7ヶ月の幼児をかかえていた私は自宅で仕事をすることが多く、WBLSばかり聞いていました。ハーレムのドラッグ・ディーラーが主人公の映画、「スーパー・フライ」のサントラを手がけたカーティス・メイフィールドはソウル/R&Bファンの間ではプロデュサー、ヴォーカリスト、ソングライター、すべての面でとても高く評価されています。私は彼がソロに転向する前のThe Impressions時代から大好きだったのでその時のショックはかなり大きなものでした。事故の翌日の8月14日、WBLSを聞いていたら、フランキー・クロッカーがカーティス・メイフィールドの入院先の病院、ブルックリンのキングス・カウンティ・ホスピタルの主治医に直接電話を入れ、病状についてのインタビューを生のまま放送したのです。まるで現在のCNNのアンダーソン・クーパーのように緊迫した現場から生中継をしたのです。経過は思わしくないようでした。ハラハラして見守るしかすべのない私たちファンにとっては「下半身麻痺の可能性が高い」「回復の見込みは未定」といった医者の言葉ひとつひとつが胸に突き刺さりました。合間に流れる “People Get Ready” “Gypsy Woman” といったカーティスの過去のヒットを聞きながらその無事を祈ったものでした。

フランキー・クロッカーとは直接会う機会があり話をしたことがありますが、いい意味でも悪い意味でもとても「アグレッシブ」な人だと思いました。なにせ、月曜から木曜はニューヨークのWBLSでプログラム・ディレクターを務め、週末はカルフォルニアの別のステーションのコンサルティングをしたり、映画に出演したりとハチャメチャなスケジュールなのです。片道飛行機6時間、これって通勤圏じゃないですよね。日本のラジオ局にもとても興味を持っていて仕事もしていたようです。もしかしたら、日本のFM局の制作部長になって日本とアメリカ東海岸、西海岸を行ったりきたりしたいという野心を抱いていたのかもしれません。日本のラジオ業界がアメリカのように影響力がなくてギャラも安いということはたぶん知らなかったのでしょう……..。

WBLS Personalities

現在は朝の人気番組、「スティーヴ・ハーヴィー・ショー」のほか、ニュー・ジャック・スウィングを代表するR&Bアーティスト、キース・スウェットが「クワイエット・ストーム」のパーソナリティーを担当、さらラジオ歴70年を誇るハル・ジャクソンが毎週日曜「サンデー・クラシックス」でがんばっています。

FRANCKIE CROCKER

“If I’m not on your radio, your radio isn’t on.”

The unique fusion of sound and sensibilities that was New York’s soundtrack in the late 1970s was defined by radio station WBLS and its program director/superstar DJ, Frankie “Hollywood” Crocker. Deep voiced, ridiculously cool, and decidedly stylish, Crocker was also the Big Apple’s leading black convert promoter, which meant he decided what got played on New York’s number one music station and he profited when those same acts performed at one of the city’s major convert venues. It gave Crocker incredible power in New York and in the industry.

Crocker went out on the disco circuit – frequenting places like the aspiration black disco Leviticus at 45 West 33rd Street, studio 54 and, most famously, the Paradise Garage – to discover his own, and the playlist changed accordingly. Crocker’s mix of music was elegant, suave, sophisticated and, most important, color-blind. Crocker played off the wall (for black radio) stuff like Led Zeppelin and Bob Dylna’s “Gotta Serve Somebody” and long album cuts as well as singles.

He is credited with introducing as many as 30 new artists to the mainstream American audiences.
One memorable scene in Soul Power follows Manu Dibango, a Cameroonian saxophonist, as he plays for a dancing, adoring group of children. Dibango, who had a strong following throughout West Africa, was able to achieve worldwide pop success, at the time a rare occurrence, which was very much tied up with the rise of disco. His 1972 recording “Soul Makossa” was the B side of another single and surely would have remained obscure if not for David Mancuso, a visionary New York DJ, who threw legendary parties in a lower Manhattan loft. The party itself became know as the Loft and featured Mancuso, with his turntable in the center of the room, playing an eclectic mix of dance records that attracted a lively cult audience, one that veterans of the New York club scene argue created the first disco music experience. Mancuso, who was the first to play many songs now regarded as disco classics, found Dibango’s record in a West Indian record store in Brooklyn.

Soul Makossa” might have remained a cult item if Frankie Crocker, the adventurous WBLS program director and DJ, hadn’t heard it at Mancuso’s party and put it on the air in New York City. By 1973 “Soul Makossa” had become a minimania, with some thirty cover versions being recorded, while Dibango’s original went on to reach number thirty-five on the pop chart. This musical journey, from progressive New York disco to WBLS playlist to international success, would be replayed scores of times during the disco era.

Frankie Crocker was inducted into the New York State Broadcasters Association Hall of Fame in 2005.

WBLS Personalities
WBLS is currently the originating station of Steve Harvey‘s syndicated morning show, and was previously the flagship of Wendy Williams‘ syndicated afternoon drive program, which ended in August 2009 when she left for her new TV show. The station also features Hal Jackson, a pioneering Black radio personality and co-founder of parent company Inner City Broadcasting, whose Sunday Classics program has aired weekly since the station’s inception.

(text by Yasuko Ito)