クエストラブとの関係とは?大西洋を渡った最後の黒人奴隷の証言 「バラクーン、カットジョー・ルイス物語」

Barracoon
The Story of the Last “Black Cargo”

by Zora Neale Hurston

ルーツのドラマー、ウ エスト・ラヴと最後の奴隷の関係

黒人民族フォークロア作家のゾラ・ニール・ハーストンの取材に基づく最後の黒人奴隷、カットジョー・ルイスの生の声を再現した物語、「バラクーン」がこの5月に出版されました。作家のハーストンは1960年、すでに他界しています。彼女は1927年(今から91年も前です)、唯一生存するアフリカから連れて来られた奴隷のカットジョー・ルイス(当時86歳)の取材を試み、本の原稿を書き上げ、1931年出版する予定でした。ところが、原稿を読んでみると、アフリカ奴隷貿易に当時のアフリカの国王や地元の軍隊などが加担していた事実が書かれていたのです。ハーストンは、ベニンのアフリカ人、カットジョー・ルイスの言葉をそのまま書き表したと説明していましたが、有力黒人団体NAACPなどにとってはとても「不都合な真実」だったらしく、彼女の草稿をそのまま出版しようという出版社もなく、日の目を見ることはありませんでした。やっと、87年という長い歳月を経て、出版に至ったとても貴重な証言だといえます。

実はこの物語が、ルーツのドラマー、ウ エスト・ラヴと大いに関係があるのです。


奴隷と言われても
………

え、何で今頃「奴隷」の話なの…….?と思う方も多いことと思います。日本の私たちにとっては遠い国のずっと昔のことだし、身近に感じないのは当然のことですよね。でも、実は、アメリカの黒人奴隷の歴史は今でも社会に大きな影響を与えているのです。

記録に残る最後の奴隷船クロチルダ

アフリカ大陸で榮えたダホメイ王国(現在のベニン)は、実は奴隷貿易でその富を得ていたことが知られています。ゾラ・ニール・ハーストンの新刊書「バラク―ン」の主人公、カットジョー・ルイスが自ら証言しています – 自分の名前はコソーラー(Kossola)、19歳の時に村に攻め入ってきたダホメイ王国の軍隊に拉致され、奴隷として売りとばされた……..。

アメリカではすでに奴隷貿易は法律で禁じられていた1860年、最後の奴隷船「クロチルダClotilda」は西アフリカのギニアの港に上陸しました。アラバマ州のモービルの街からやってきた白人のキャプテンは、バラク―ンに集められていたアフリカ人を130人購入することに成功しました。

ところが、輸出側のダホメイ王国の挙動がおかしいのです。一度売った奴隷を取り戻し、再度お金を要求するという悪質な手口(奴隷売買より悪質とは思えないのですが……..)を使うことで知られていたこともあって、キャプテンはとっさに危険を察知し、まだ130人の「貨物」を積み終わっていないのに、船を猛スピードでスタートさせたのです。奴隷の合計は116人でした。

こうして、最後の奴隷船「クロチルダClotilda」は無事、1860年8月のある日曜日、新天地「アメリカ」南部、アラバマ州のモービルの港に着きました。コソーラー(Kossola)は、その116人の「貨物」のひとりでした。そこで、船のキャプテンの親戚の白人の奴隷となり、カットジョー・ルイスとアメリカ名をつけられ強制労働をさせられました。1865年に奴隷解放令が発令され、「自由」になりましたが、実際には、同じ主人のもとでわずかな賃金を与えられ、奴隷同然の生活を強いられました。いつしか故郷のアフリカに帰る、と固く心に誓っていたカットジョー・ルイスですが、どこから来たのかもわからず、船旅の費用もまかなえず、しかたなく同郷の仲間たちとモービル近くのプラトー(Plateau)に「アフリカタウン」を建設して住み、1935年、二度とアフリカの土を踏むことなく、95歳で亡くなりました。

最後の奴隷の証言、「バラク―ン」

アフリカから連れられてきた最後の奴隷というので、1920年代、80歳を過ぎていたカットジョー・ルイスは、アメリカの人類学者たち何人もから取材を受けました。そのうちの一人がフォークロア作家のゾラ・ニール・ハーストンだったのです。彼女の使命は、アメリカの奴隷貿易の実態と、奴隷たちがどのようにして大西洋を渡りアメリカに上陸したのか、アメリカの農園主のもとでどのような待遇だったのか、といったことを取材を通してその実話を本にして出版する、というものでした。カットジョー・ルイスのインタビューは容易ではありませんでした。いつかアフリカの祖国に帰りたいと望んでいたカットジョー、同じ黒人とはいえ、若い次世代のアフリカン・アメリカン、ゾラを快く受け入れたわけではなかったようです。インタビューは彼の機嫌のよい時を選び、約三か月の期間、時には週に一回、または二日連続、など不規則に行われました。ゾラがスイカや桃、ハムなど手土産をもってカットジョーをたずね、一緒に食べながら話したり、ただ一緒に座っているだけで一言も話さないこともありました。その取材で得た情報をもとに「バラク―ン(Barracoon)」の構想ができあがったようです。


タイトルの「バラク―ン」というのは、アフリカ奴隷の一時待機所のことだそうです。奴隷狩りをして、アフリカの男女を港の待機所に集め、そこに大型奴隷船でやってきたヨーロッパ各国やアメリカの奴隷売買商人にお金やモノと奴隷を交換に引き渡すということが約400年にわたって行われていました。主に、西アフリカ、現在のシエラレオネ、ベニン、ガーナ、カメルーン、ナイジェリアなどでアフリカ人が拉致され、奴隷としてイギリス、ポルトガル、ブラジル、ハイチ、アメリカなどの各国の奴隷商人たちに売られていったのです。


クエストラヴが存在する理由
?!

奴隷は人間ではなく、「貨物・家畜」として扱われていたため、戸籍がありませんでした。ですから、自分の祖先が誰なのか知ることは不可能に近かったのです。最近は、サイエンスが進歩したせいで、DNAを調べると自分の家系など多くのことがわかるようになりました。

アメリカの教育テレビPBSの番組、「私のルーツ探し」は、黒人のセレブが出演する人気番組です。みんな、自分の祖先のことを知りたいのです。

ルーツ(といっても奴隷のクンタ・キンテの物語の「ルーツ」ではなく、ヒップホップ・バンドのルーツです)のドラマー、クエストラヴがゲスト出演した「私のルーツ探し」のエピソードは特に印象に残りました。

なんと、ハーストンの著書「バラク―ン」に登場するカットジョー・ルイスと同じ、最後の奴隷船「クロチルダ」に乗船してアラバマ州のモービルに奴隷として売られたチャールズ・ルイスが、クエストラヴの曾、曾、曾おじいさんだというのです。もし、チャールズ・ルイスが奴隷としてアメリカに上陸しなかったとしたら、私たちはクエストラヴのような才能あふれるドラマー/ミュージシャンの音楽を楽しむことができなかったと思うと微妙な心境です……..。

クエストラブの番組インタビューの一部をこの記事で見ることができます。

伊藤 弥住子

 

 

 

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