市民権運動家、著者として活躍したポール・ローブソン・ジュニアが先週の土曜日に逝去しました。86歳でした。
実はポール・ローブソン・ジュニアを語る時に欠かせないのは彼のお父さん、市民権運動の指導者として黒人たちの人権擁護のために果敢に闘った偉大な運動家であり、俳優、歌手でもあったポール・ローブソン・シニアです。なぜなら息子のポール・ジュニアは、お父さんの功績を次の世代へ伝えるために、生涯を捧げたと言ってもいいくらいだからです。
ということで、まずお父さんのポール・ローブソン・シニアについて。
市民権運動の活動家でありながらエンターテイナーという、非常にユニークな存在だったポール・シニア。
ニュージャージーのラトガー大学ではフットボール・チームの初の黒人として好成 績を収めたほか、歌や演劇の才能にも恵まれ、シェークスピア劇、「オセロー」の主役を務めたり、まだまだ黒人を起用することの少なかったブロードウェイ・ ショーに出演したり、ラッキーなスタートを切りました。カリプソ界の大スターのハリー・ベラフォンテが、「歌を教えてくれたのはポールなん だ。とても尊敬している先輩です。」とコメントしているほどです。
ポール・シニアはエンターティナーとしてイギリスを始めヨーロッパなどで公演するチャンスに恵まれ、アメリカ以外の世界に目を向け始めます。
アメリカでは 黒人は夕食人種として差別されていましたが、共産主義のソビエトでは人は「労働力」としてみなされ、白人も黒人も同じように扱われます。と言っても、ソビ エトにはあまり黒人はいませんでしたが…….。ポール・シニアは「人種差別のないソビエトの共産主義」に興味を持ち始めます。同じ理由で共産主義に傾倒し ていった黒人作家やミュージシャン、市民権運動指導者たちもたくさんいました。
ポール・シニアはトルーマン大統領率いるアメリカ政府から「ラディカル」と弾圧されましたが、その理由は、ひとつには彼が黒人だっ たこと、さらに共産主義に傾倒していたことも大きな要因だったといいます。
一方息子のポール・ジュニアの方は、父親の影響でソビエト時代のモスクワで育ち、あの恐怖政治で知られるスターリンの娘と同じ学校に通っていたそうです。生涯、父親と共に市民権運動に身を捧げ、父が亡くなった1976年以降は父の伝記を書いたり、スピーカーとしてさまざまなイベントに参加したり、また、父親同様、ロシア語が堪能で、ロシア語の通訳などの仕事もしていました。
息子、ポール・ローブソン・ジュニアにとっては、キング牧師やマルコムXの暗殺など、黒人たちにとっての動乱の時代を生きてきた英雄、ポール・ローブソンが伝えたかったメッセージを若い世代に引き継いでゆくことが生涯の目標だったといいます。